盾持人の古墳探訪記 上野三碑

盾持人の古墳探訪記 上野三碑

上野三碑(こうずけさんぴ)

高崎市山名町にある
「辛巳歳(かのみのとし)」(681年)銘の山上碑
神亀(じんき)3年(726年)銘の金井沢碑
高崎市吉井町池にある
和銅(わどう)4年銘の多胡碑
3つの石碑を「上野三碑(こうずけさんぴ)」と呼ぶ。
平安時代より古い石碑は全国でも18例しか現存しておらず、
3つの石碑が狭い範囲に集中しているのは非常に珍しい。

文字を使って石碑を建てる文化は、当時、
朝鮮半島や中国大陸から伝わったものとされ、
古代の群馬県には、
渡来人から伝わった文化や技術が大きく関わったと考えられる。

それぞれの碑が建てられた目的や内容・性格は異なるが、
仏教や文字の広がりと渡来人の動き、
中央政府の支配体制を知る資料として共通点がある。

上野三碑はその価値が認めれ、2017年10月に
ユネスコ「世界の記憶」に登録された。

山上碑(やまのうえひ)

山上碑(やまのうえひ)

造立:681年
所在地:高崎市山名町字山神谷2104
高さ:111cm 幅:47cm 厚さ:52cm
硬質の輝石安山岩を使用。
前面の平らな部分に、縦書き4行で53文字が刻まれている。
風化のため一部判読しにくい部分がある。
完全な形で残る日本最古の石碑。

銘文(現代語訳)
辛巳年(681年)10月3日に記す。
佐野三家(屯倉)[さののみやけ]をお定になった
健守命[たけもりのみこと]の子孫の黒売刀自[くろめとじ]。
これが、新川臣[にいかわのおみ]の子の
斯多々弥足尼[したたみのすくね]の子孫である
大児臣[おおごのおみ]に嫁いで生まれた子である長利僧[ちょうりのほうし]が、
母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。
放光寺の僧。

※刀自:女性の尊称。
※臣・足尼:男性の尊称。

山上古墳の訪問を目的に来て、
山上碑を初訪問しました。
ユネスコ「世界の記憶」に登録されたのは知っていたので
いつかは行こうと思っていたのが今回になりました。

碑の内容は現地に着いてから知りました。
埋葬された黒売と施主?長利の関係(系譜)も書かれている
"「山上古墳の墓誌」みたいな物"なんだと
勝手に納得。

それにしてもこんな山の上に古墳を造ったり碑を造立出来る
佐野三家を管理する豪族って凄かったんだろうと古代妄想。
石運ぶの大変だったろうなぁ
傷付けずにどのように運んだんだろうと古代妄想。

健脚なうちに訪問する事をお勧めします。

金井沢碑(かないざわひ)

金井沢碑(かないざわひ)

造立:726年
所在地:高崎市山名町字金井沢2334
高さ:110cm 幅:70cm 厚さ:65cm
硬質の輝石安山岩を使用。
前面の平らな部分に、縦書き9行で112文字が刻まれている。
風化のため文字が判読しにくい部分がある。
「群馬」という文字が地元で使われた最も古い資料。

銘文(現代語訳)
上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子○が(発願して)、
祖先および父母の為に、
ただいま家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、
その子の加那刀自、孫の物部君午足、次のひづめ刀自、
次の若ひづめ刀自の合わせて6人、
また既に仏の教えで結ばれた人たちである
三家毛人、次の知万呂、鍛師の磯部君身麻呂の合わせて3人が、
このように仏の教えによって
(我が家と一族の繁栄を願って)
お祈り申し上げる石文である。
神亀3年(726年)丙寅2月29日

※家刀自:家を統括する女性の位。主婦。
※知識:仏教の教え。
※鍛師:製鉄や金属加工に携わる職。

山上碑を訪問した勢いで金井沢碑を訪問しました。
両碑とも初訪問です。
上野三碑コンプリートしました。
(多胡碑は数回訪問済み)
近くにあってもなかなか行かない所だったので、
気分的にもスッキリしました。

碑の内容も山上碑と同じく、現地で知りました。
"発願した人である三家の豪族の家系と仲間を書いて繁栄を願った碑"
と解釈しました。

山上碑にも書いてあった佐野三家を統括する豪族
現在の佐野地区に存在していた豪族らしいですが、
凄い勢力だったんだろうと古代妄想。

県内各地にこのような凄い豪族が沢山いたんだろうと
色々な古墳を巡り感じています。

多胡碑(たごひ)

多胡碑(たごひ)

造立:711年
所在地:高崎市吉井町池字御門1095
笠石・碑身・台石で構成
笠石 幅:95cm 奥行:90cm 軒面厚さ:17cm
碑身 高さ:129cm 幅:69cm 厚さ:62cm
笠石の頂点から台石に隠れた碑身の最下部までの高さ:196cm
牛伏砂岩(花崗岩質砂岩)別名:多胡石を使用。
前面の平らな部分に、縦書き6行で80文字が丸底彫りされている。
台石は第二次世界大戦後、コンクリート製に造り替えられた。
上毛かるたでお馴染みの石碑。

銘文(現代語訳)
朝廷の弁官局から命令があった。
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡の中から
300戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。
郡の名は多胡郡としなさい。
和銅4(711)年3月9日甲寅に命令が伝えられた。
左中弁正五位下多治比真人(三宅麻呂)。
太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、
右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊。

※尊:敬称

多胡碑は数回訪問しています。

多胡郡の設立記念碑として認識しています。

南高原1号古墳(みなみなかはらいちごうこふん)

多胡碑の覆屋に向かう途中に
移築された古墳が2基ありました。

何回か多胡碑には来ているので、
初訪問ではないかもしれませんが
2基の古墳を意識したのは初めてなので
初訪問扱いにします。

南高原1号古墳(みなみたかはらいちごうこふん)

形状:円墳
  墳径17m
  低い基壇を有する2段築成。
  周堀、葺石を備える。
埋葬施設:南側に入口をもつ横穴式石室
    石室全長 約8m
    石材 牛伏砂岩
築造:7世紀
古墳番号:多胡村115号古墳
高崎市吉井町神保259、260、261番地より移築

片山1号古墳(かたやまいちごうこふん)

片山1号古墳(かたやまいちごうこふん)

形状:円墳
  墳径 約32m
  周堀を含めると直径 約50m
埋葬施設:墳頂中心より南側に寄った位置から
    8.8mを測る長大な粘土槨
出土遺物:粘土槨から、鏡、堅櫛、鉄剣、鉄鏃、
    鉄製斧、石製模造品、管玉
築造:4世紀末から5世紀初頭
古墳番号:吉井町65号古墳
高崎市吉井町片山117番地より粘土槨を移築

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